私は、最近、実体験に近い2冊の小説を手元にいつも置いてます。
重松清「ワニとハブとひょうたん池で」(『ナイフ』新潮文庫)
瀬尾まいこ『温室デイズ』(角川書店)
二つの小説の共通点。それは「いじめ」。
そして「いじめられていることを誰にも相談しない認めない」という点。
『温室デイズ』の「みちる」は途中で吉川という講師に話しちゃうけど。
「いじめ授業」の定番「教材」とも言えるあの事件も、途中まで
いじめられる側は途中まではニコニコしている。でもある時先生に“訴えた”。
「いじめ授業」の「教材」には、被害者が“訴えてこない”事例もある。
ところで、「いじめ授業」の「教材」や多くの“いじめ対処”類ものにある前提。
それは、被害者は「ホントは訴えたい」という前提じゃないだろうか?。
だから、「実態は調査すれば明らかになる」はずであるし、
「被害者が訴えるための選択肢がいくつも準備され」体制が充実される。
私もこの前提は「多くの場合においてある」ものだと思っています。
一方で、この前提は「大人が想定した」ものであろうことを私は感じます。
それは先の2冊の小説から。そして私の昨年4月からの3ヶ月の体験で。
持ち物への落書き・テスト時間に掃除箱に閉じこめられる・給食デザート集め・・・。
明らかに「いじめ」。しかし被害者は訴えない。担任は私。
先の前提で行けば「実態を調査すれば明らかになる」はず。
周囲への聞き取り。学年アンケート。「あいつはいじめられている」が多数。
いじめの聞き取り内容・アンケート。「実態は明らか」になった。
でも“被害者”は認めない。実態は明らか。状況・物的証拠もある。
でも“被害者”は認めない。校内・校外の相談者・機関も紹介。でも相談はしない。
関係機関から聴取してもらう。でも“被害者”はいじめ被害を認めない。
数度に渡り保護者とも面談。証拠もアンケートも保護者に提示。でも認めない。
保護者は証拠と実態調査結果をみて涙を流す。その隣には我が子がいる。
休み時間も毎日観察。それでも被害が続く。加害者も観察してもらう。それでも続く。
被害生徒は欠席が目立ち始める。それでいい。
保護者と話す。最終手段の話~転校を。本人は「転校もいいかな」と言ったらしい。
単身赴任の父親が帰って来た時に家族会議をもつことになった。
翌日、伯母という方からクレーム。「担任が転校を勧めるなどけしからん!」
生徒指導主任と校長は私を聴取した。私の行為は間違っていない根拠を伝えた。
結局、“被害者”であった彼は、家族会議の結果、転校した。隣の中学へ。
当然、転校先で「被害」はないらしい。
「いじめ対処の前提」が前提たり得ない現実に私は苦悶した。
土日も何が証拠がないかと思い、教室にトイレに・・・校舎中を探し回った。
「加害者」観察も範囲内で協力をもらった。「加害者」保護者にも実態を見せた。
“被害者”の彼が転校した後、「加害者」はターゲットを失った。
周囲も「加害者」との関わりを徐々に避け始めたようだ。現在は保健室登校らしい。
しかし、その光景を私は見ていない。
“被害者”への被害を食い止めるところで私は力は尽きた。
“被害者”が訴えないのは「報復を恐れ訴えられない」という前提からか?
“被害者”が訴えないのには「訴えたくない」というのがあるかもしれない、と2冊の小説から思った。だとすると、「訴えられない」の前提は絶対ではなくなる。私の3ヶ月の体験が、この前提とどういう関係にあるか。はっきり分からない。でも、私は世の大人に聞きたい。
「いじめ」の“被害者”は本当は訴えたいと思っている、は本当か?
こんなこと、大人に聞いたってしゃあないのかもしれない。でも大人のいじめも少なくない。そして、被害者の中で「訴えたくない」と思うのは物語の中だけかもしれない。それでも私は「本当なのか?」と思ってしまう。
私はこの経験を問題提起したい、と思うことがある。でも、そう思うたびに気が滅入り胸が苦しくなるのである。だから、もう少し時間を置かないとダメかな、と思っちゃう。でもでも、なぜかこのブログには書けた。かなり長々ダラダラ下手な文章だけど(笑)。
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